荻上直子監督作品 めがねについて

こんにちは。小林聡美が主演の一連の「かもめ食堂」(2006)から「マザーウォーター」(2010)までの映画を全て観ましたが一番メッセージ性がある作品でした。インターネットの感想の多くは癒されるという意見でしたが僕は非常に怖い映画だと思いました。何度もアリ・アスターの「ミッドサマー」(2019)がフラッシュ・バックしました。この映画は洗脳を実に美しい映像と穏やかな音楽に隠した映画です。途中主人公のタエコ(小林聡美)はマリン・パレスという宿に行きます。そこは午前中は畑仕事して午後は勉強会をするというあからさまなコミューンとして描いています。荻上直子がどういう意図でこれを入れたのか定かではないのですがもしハマダという宿と対比させてハマダは自由で素晴らしいのだという狙いならば僕はそうは思えませんでした。サクラ(もたいまさこ)が行うメルシー体操や登場人物が全員めがねを掛けていることまた黄昏れるという独自の意味の言葉などは言い方は悪いですがカルト宗教そのものだからです。というかサクラは人間として描かれていません。神とか仏とかに近いような存在です。中盤に象徴的なタエコが持ってきたキャリーバックを捨てるシーンがあります。そのシーンのサクラの形相は非常に冷たく突き放したような表情をしています。ハルナ(市川実日子)のサクラに対する言動も不自然です。お金を使わないことや容量の得ない会話などは深読みし過ぎかもしれませんが何か薬を使っているのではないかと勘繰るくらいの不自然さです。編集はヌーヴェル・ヴァーグっぽいです。具体的に言えばジャック・リヴェットっぽいです。洗脳は恐ろしいですが人は多かれ少なかれ洗脳を受けて育っています。この映画はそれを肯定するか否定するかで観方が変わると思います。つまり序盤のサクラの行動に主人公と同じく不快な思いをした人はそれで正しいのです。というかそういう風に撮って編集しておいて映画が終わる頃にはそれは間違っていたというのはおかしいと思います。僕は癒されるというよりも考えさせられた映画でした。

20230711

序盤にタエコとユウジ(光石研)の荷物の下りがあります。ここでのユウジの行動は宿の主としては失格です。サクラが朝起こしに勝手に部屋に入って来るのも良くないです。何故こんなシーンを序盤に入れたのでしょう。タエコとハマダの宿の人間を対立させるためということもあるでしょうがそれ以上に価値観が転覆することの恐ろしさを描きたかったのではないかという気がします。上手く書けないのですが引っ掛かっているのは途中で出てくるマリン・パレスです。あれをあからさまにカルト宗教のように描いていることが引っ掛かっているのです。良く映画でも生きる気力を失った人間が生きる喜びを取り戻す話があります。それは言い換えれば価値観が転覆したということでありそれはつまり洗脳に近いのです。それがどれだけエコロジカルであろうとも他人が他人の考えを変えることは怖いことです。後半の人が変わったようなタエコは確かに都会の喧騒を忘れてストレスが無くなったのかもしれませんがそれが果たして彼女の幸福になるのかといえば決してそうではないでしょう。映画にこんなことを言うのは無粋だと分かっていますがあまりにもインターネット上で癒されるという意見が多く僕はそっちの方が怖くなりました。