今日の日記

 

現在 2026/07/19 5:51である。昨日は深夜に用があってドライブをした。誰も居ない道路は非常に快適で夜にドライブするのは結構良いかも知れないと思った。ニコニコ動画にある高畑勲の「かぐや姫の物語」(2013)についてのドキュメンタリーを観る。やはり一度で良いから会ってみたかったなと思う。観て判るように非常にめんどくさい人なのだが時折見せる子どもみたいな一面がとてもチャーミングである。とは全く無関係で居る第三者の勝手な意見であり実際に関わればムカつくような事もあったと思うのだが結局それが才能なのかまぁ良いかと思えてしまう可愛げがあると思う。大人で中々寝転がるという行為を人前であんなに堂々とする人は珍しい。ドキュメンタリーで何もしていない時間を映すというある種の前衛というか本当にコントみたいなやりとりも多数見受けられて面白い。高畑勲でも作品を作っている時に実はこれ全く詰まらない物なんじゃないかと悩んでいたりするのも興味深い。

現在 2026/07/19 13:12である。朝7時位からオオタカを探しに色々な場所を見て回った。実家の近くにある山に目撃例があると聞きその山に登って探したがやはり居るのはトビだけでオオタカは居なかった。その山の麓には3m位の展望台なるものがありそこからは町が一望出来て中々良い物だなと思い三脚を伸ばし風景を撮っていた。オオタカがもしかしたら飛んでくるかなと思って待っていたが中々飛んで来ない。待っているのも疲れるし下にそう言えばパイプイスがあった事を思い出しそれを取って来た。その時遠くに鳥の影が見えて急いでカメラを撮ろうとした時足場にしていたパイプイスがぐらついて大きくバランスを崩した。叫んだが時すでに遅くカメラと三脚は展望台の下に落下した。不幸中の幸いだったのはまず手前に落ちた事で拾う事が出来たが奥に落ちていたら多分取れない場所に落ちていた事と壊れたのは本体のカメラの液晶画面だけが壊れて他は無傷だった事とカメラを買った時に水没以外の故障に対応する保険に入っていた為無償もしくはかなり安く修理出来る事がある。最近不幸が続いている。このカメラだってほんの1週間前に手に入れたばかりの新品でありしかも本体のカメラは20万もするのである。仕事でもかなりミスが続いていて厄年かと思って調べたが厄年では無いようである。ポジティブに捉えれば失敗するという事はそれだけ挑戦をしているという事である。にしても流石に1週間でカメラを落とすのは違う。

現在 2026/07/19 19:18である。追加の不幸があった。車の右前輪がパンクしたのだ。これは確実に何か悪霊に取り憑かれているに違いない。無理矢理ポジティブに考えるとこれ以上悪い事は起きないだろうと思うのだがそれにしても酷い。ラヴ・ディアスの「立ち去った女」(2016)が届く。「ドクタースランプ」(1997)をイヤホンが届いたので12話まで観た。面白いのだが何故こんなにもキャラクターの見た目を一新したのかは良く判らない。アニメのリメイクは数あれどここまでキャラクターの見た目を変えたのは後にも先にもこの「ドクタースランプ」位では無いだろうか。正直自分は原作を一度読んだもののすっかり忘れてしまっているので結構気にせずに観れるのだが原作を読んで好きになった人はやはり抵抗があるのかも知れない。

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現在 2026/07/18 2:33である。夕べは21時位に寝て今日の0:30位に起きた。何かしないとちゃんと寝れないのである。ずっと続けていたアニメーションの作業をストップしたのでその代わりに小説でも書こうかと思っていたが結局ダラダラして今に至る。やはり物を作れる時と作れない時は理屈では無く単純にそういう身体になってしまっているのである。だからこんな時に無理矢理何かを作っても決して良い物にならないしかといって諦めて寝れるような心境でも無い。ずっと何かしないとなと思いながら部屋でゴロゴロするしか無い。高畑勲について調べていてYouTubeで高畑勲の「かぐや姫の物語」(2013)で制作を担った西村義明が高畑勲の映画の作り方で映画に出来ない時間を作る事を語っていて確かにそうだなと思った。今何も考えていないように思えてこれはあらゆる選択肢から何かを取捨選択する為に何も出来ない時間なのだと言う事である。自分が買物に行っているディスカウントストアに居る店員で雰囲気が凄く可愛い人が居る。そこには3人位若い女性の店員が居て2人は凄く美人な感じの人なのだがその可愛い人は雰囲気が可愛いのである。言ってしまえばそこまで美人という感じでも無いのだが何というかその人は映画になりそうなのである。映画を撮りたいとはずっと考えているがこんな感じで俳優は発掘されるのかも知れない。映画になり得る人というのは何が秀でているのだろうか。その人に関して言えば動作のような気がする。品物を前に出して整理したりする時とか歩き方とかレジで打っている様子とかが何か映画みたいだなと思ったのである。話し方は生真面目な感じで凄く愛想がある訳でも無いのだが何か良いのである。笑顔で過剰に接客する店員よりも自分はそういった淡々とした接客の方が好みである。多分歳下だと思うが初めて歳下で良いなと思う女性を見た気がする。結局男の映画監督で女の主人公を想定した物語を考える時にモデルになるのはそういった身近に居る女性以外に対象が無い。自分は全く映画を撮れる立場に無いので駄目だがもし撮れるならばその人がただ街でうろうろしたり家で生活しているのを撮ると思う。それだけで成立し得るだけの可能性を感じたのである。「ドクタースランプ」(1997)はTVで観るのにイヤフォンを付けて観たいと思ってコードが長いイヤフォンをAmazonで注文したので届くまでは観ないようにしている。日曜日はオオタカとクマタカを狙いに山に行く。何でも実家の近所の山で目撃例があるらしく早朝から山に登る積りである。

現在 2026/07/18 12:09である。上の日記を書いてからもずっと寝転びながらグダグダしていて気付けば朝の5時であった。そこから2時間位仮眠を取り今仕事場の休憩中にこれを書いている。今読んでいる詩人のブログは映画の感想などは非常にしっかりとしていて理路整然とした文章なのだが私生活の文章になると途端に意味不明になる。川柳とか俳句とかの世界の方なのでかなり日本語の使い方に気を遣っているのだがその意味不明さは意図しているのか本当に頭がおかしい人なのか判らない。

今日の日記

 

現在22:41である。今日はアニメーションの本格的な作画の為に細かい設定とか資料を作ろうとしていたが止めた。余りにも気が乗らないからである。しばらくは休む積りである。今日は1日中詩人のブログを読んでいた。自分は定期的に読み返しているブログが2つあって何故か2つとも詩人である。女性は往々にしてポエミーであるが自分が読んでいるのは2つとも男性であり男の詩人には所謂生物学的な男としての強さから最も離れた文化的な魅力が漂っていて好きである。何を読んでいるかと言うとその方がどんな映画を観たかとかどんな本を読んだかみたいな物ばかりである。あとは日記めいた過去の1日を切り取ったような物も読んでいる。何がしたいのかというと詩人という生き方を追体験したいのだと思う。その影響でフィリピンのラヴ・ディアスという映画監督を知った。作品のほとんどが長尺で中には10時間近い作品もある様な作家である。ラヴ・ディアスの「立ち去った女」(2016)をメルカリで注文した。ついでと言っては何だが同じく長尺繋がりでエドワード・ヤンの「牯嶺街少年殺人事件」(1991)も4000円位のがあったので注文した。結局節約すると言って全然していない。詩人への憧れは遁世したいという欲望とも密接に関わっているのだが世の中に心底嫌気が差している証拠だと思う。昨日の日記を読み返して流石に自分でもどうかしているとは思うが今世の中に万遍なく広がっている価値観とか常識みたいなものに遂に自分はついて行けない事がはっきりと判ったからだと思った。つまり恋愛をするとか子どもを作るとか何かを好きだと恥ずかしげも無く言う事とかである。孤独という言葉はそんなに好きではない。孤独という言葉は格好良過ぎるからである。それこそ鷹とか鷲の様な狩人には孤独とか孤高という言葉が似合うが自分はただ1人というだけである。本当に疑問なのだが現在恋人が居る男でも女でも良いが一体どう折り合いを付けて他人が居る生活に納得しているのだろうか。この平和で何の脅威もない現代日本においてどう考えても1人で生きる事以外は不自然極まりないとしか思えない。海の向こうの戦争についても与える影響は精々物価上昇位で文字通り対岸の火事である。この中で恋人達は何を考えて子どもを作ろうと思うのだろうか。真剣にそれが疑問なのである。生物について調べているとどうしても反出生主義に辿り着く。だってこんなにヒトはいるのだからもう必要無いだろうという至極当たり前の結論である。それが暴走するとだったら人を殺しても良いんじゃないかという飛躍した考えになってしまうのかも知れない。

今日の日記

 

新しいアニメーションのプロットを1カ月間描いていて丁度昨日で描き終えた。今燃え尽き症候群になっている。自分の中の引き出しをほとんど出してしまったからである。前から読んでいる今は更新されないブログを読み返していてフェデリコ・フェリーニの「そして船は行く」(1983)を観たいと思った。メルカリで買うとなるとVHSで8000円DVDでも大体20000円位する。今日ニュースを観ていて一方的な過失による交通事故で子どもを亡くした両親が判決に納得出来ないと答えるインタビューを観た。何故そんなに怒っているのだろうと思ってしまった。今かなり遁世したい気分になっていて人間なんて元々多過ぎるのだから別に1人位死んでも良いだろうと思った。父親って実はそんなもんじゃないのかと思う。母親が怒るのは当然であるしその事故は本当に全く被害者に落ち度が無い事故でその子どもは運が悪かったとしか言えないのだがそれによってこの先一生時間を使う事を考えると別に良いだろうと割り切るのも大切では無いかと思う。というか裁判って何故こんなに時間が掛かるのだろう。そういう所にAIを使えば良いのである。生物について調べていると死生観が変わってくる。野生動物が自然の摂理に従って殺されたり死んだりする事にヒトはずっと抵抗していてその歪みがそういった事故とか突発的な無差別殺人みたいな事件に繋がっているのでは無いかと思っている。飛躍すると事故とかですぐに死ぬ人間は絶対に死を想定して生きていないのだろうと思う。自分は結構今何かが起きて死ぬかも知れないと思う事が多くそんな事を言っていてすぐに死んだら面白いが多分何とか生きている気がする。去年のこの時期に書いた自分の日記を読んだらやっぱり同じような事を書いていた。自分でもかなり他者に対して攻撃的になっている事は自覚している。鷹について調べているとオオタカとかクマタカはやはり森とか山に居るらしい。鳥の名前が面白くノスリは野擦から来ていて獲物を捕まえる時に地面スレスレに飛んで捕まえるからノスリである。チュウヒという鳥は宙飛でハヤブサは速翼から来ている。トビも多分普通に飛から来ていると思う。鳥を撮りたいという欲望は珍しい物を探したいという欲望に近い。そして男は運が絡む物が好きなのである。自分はギャンブルはしないがそれも結局は運である。

今日の日記

 

「ドクタースランプ」(1997)を6話まで観る。アラレちゃんがとにかく可愛い。多分今も昔も小さい女の子は往々にしてこんな感じなのだろうなと思う。子ども向けのアニメを久し振りに観ているがやはり子どもみたいな発想は大事だと感じる。例えばコーラをエンジンにして空を飛ぶとか空の上に蛇口があってそれをひねると雨が降るとかそもそも地球が宇宙の中で地球儀みたいにあってでっかく地球と書かれているとか非常に単純明快ではあれどそこにこそ本質はあると思う。別に「ドクタースランプ」に限った事ではないが登場人物が笑うというのは良いなと改めて思う。特に鳥山明の特徴的な笑い顔は好きである。今日昼間に鷹を観察するスポットを探しに行っていた。鷹類が好む様な森があって川があって開けている土地を探していたら以前から知っている川辺りの場所に辿り着いた。すぐに岸に生えている樹の上にトビが留まっているのを見つけた。恐らくであるが自分を含めて一般的な方が鷹と聞いて思い描く鷹の姿はトビだと思う。トビは全体的に茶色っぽく羽の辺りに白い模様がある鳥で鷹はお腹が白っぽいのが特徴である。自分が住んでいる地域で日常的に見かけるのはほとんどトビである。トビの鳴き声はピューヒョロロロみたいな鳴き声である。間近でトビが帆翔(ソアリング)という翼を羽ばたかせずに飛ぶのを見て格好良いなと思った。余裕という感じである。同じ所をぐるぐると旋回するのはサーマルという上昇気流を使っているかららしい。途中カラスがやってきてそれをつがいなのか2匹のトビが威嚇して追い払う場面もあった。多分その森にはトビの巣もありそうなのだが流石に人が見える様な場所には巣は作らないのだと思う。明日はカメラを持って行って撮影しようと考えている。一昨日に初めてトビを撮影してみたが長時間片目でファインダーを覗くと瞑っている方の目が痛くなる。あと普通に被写体を映す事が困難である事を知った。特に初心者の癖に動きのある野鳥観察なので尚更なのだがファインダーで見ていてもすぐに見失ってしまい肉眼で見て急いでカメラを動かすみたいな感じになってしまっている。

今日の日記

 

昨夜からの出来事を時系列に沿って書いてみる。昨日夕方に「カメラのキタムラ」からやっとレンズキットが届いたと連絡がありそれを取りに行った。カメラ本体と望遠レンズとレンズキットと三脚と防湿庫とSDカードと予備のバッテリーで44万円である。帰ってきてその日は何時の間にか寝ていて今日の0時位に目が覚めた。Kindleで楳図かずおの「蟲たちの家」(1972)を初めて読んだ。前にも書いたがやはり楳図かずおは凄い。所謂寝取られの様なジャンルに属しているのだがそれをこの狂気の世界で行う事に意味がある。夫の言い分と妻の言い分には差があるのだがその真実を知る術は無い。妻が追い詰められて虫になりたいと願う事そのものに楳図かずおのセンスがある。基本的には美と醜のコントラストであり「愛の奇蹟」(1968)でもそれは通底している。美しい少女が恐ろしい目に遭い怖い表情をするのも美と醜である。YouTubeでココリコの田中直樹と元ラーメンズの片桐仁が生き物について話している動画を観た。やはり生き物は面白いなと感じる。朝からカメラの使い方と野鳥観察の準備を兼ねて山の家に行った。山に登り鷹の巣を探したが居るのは雀だけであった。そもそも鳥が空に羽ばたいておらず山の空気に癒やされはしたが肩透かしを喰らう結果だった。今調べてみて納得であるが鳥は暑いのが苦手らしく今日の様な暑い日は木の木陰とかで休んでいるらしい。山を歩いてみると今の時期ならば蝉と小鳥のさえずり以外何も音が無い。一度一斉に蝉が鳴き出した時は少し恐怖を感じた。自然を前にすると昔の日本人は多分こんな事を考えたんじゃないかとふと思う事がある。今日は黒沢清の「黒牢城」(2026)を観に行こうと映画館に行く積りであった。が結果的に止めた。それはまず上映時間にギリギリであった事とその映画館が入っているショッピングモールが死ぬ程混んでいた為である。自分はこの世の中で渋滞と行列が1番嫌いであり5分程駐車場をうろうろして全く駐車スペースが無い事が判った時に即決で今日は帰る事にした。片道1時間半位の時間と5分程のその彷徨を天秤にかければ当然時間が掛かっても駐車スペースを探すべきなのだが今日は睡眠不足もあって輪を掛けていらいらしていてそのショッピングモールに群がる人の群れを見て犯罪一歩手前の感情が湧いてしまい自分の精神衛生の為にもその場をすぐに立ち去った。言い方は悪いが何故人はこんなにも群がるのが好きなのだろうか。そのショッピングモールには人がごった返していて全員揃って馬鹿だと思った。何というか混んでいるならば他の店で買物をしようとかいう発想が無いのだろうか。自分は半年振り位に街に出て来て途中でうるさいバイク乗りが爆音でアイドルの音楽を流しているの見たり制限速度の10キロ超えで走っているのに追い越してくる車を見たりしてつくづく街には馬鹿しか居ないと思ってしまった。それは今日の前半の山の静かで癒される環境との対比でより一層そう感じたのである。前にも書いたがバイクに乗る方は何故あんなに爆音でエンジンを吹かすのか全員にインタビューしてこちらに納得の行く回答をもらえるのか検証して欲しい。そして乗るなら1人で山の上の誰も居ない場所で勝手に乗って欲しい。集団で公共の道路を走るのは本当に迷惑千万でありそれを見る度に日本人にがっかりしてしまう。今かなり睡眠不足でいらいらしている事を自覚してはいるが街に居る男も女も皆揃いも揃って馬鹿の様に髪を染めて小綺麗な格好をしている事に苛立ちを覚える。馬鹿しか居ないのである。多分そういう連中は1人で何かを作るとか何かを考えるとかいう一切の細胞を持ち合わせていないのである。適当に皆に合わせて生きていてそれで満足出来るある意味で羨ましい人間である。別に右翼でも左翼でも無いが今の日本人に足りないのは絶対的にそういった自律性であると感じる。AIを使っても良いがそれによって失われる物を大きさをもっと考えて使うべきであると思う。と色々書いたが今現在21:31は全然平穏な気持になっている。メルカリで届いた「ドクタースランプ」(1997)を観てアラレちゃんの可愛さに癒されたからかも知れない。

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RHYMESTER宇多丸のラジオ番組「アフター6ジャンクション」(2018)の「高畑勲とは何者なのか?」という特集に映像研究家の叶精二が出演していて高畑勲が亡くなった後に自宅からかなりの量の未発見の書類が見つかったらしくその中で薮下泰司・芹川有吾演出の「安寿と厨子王丸」(1961)の絵コンテに高畑勲が書き直した跡がありどうやらクレジットされていないが演出助手をしていたらしいという情報を聞いた。早速「安寿と厨子王丸」を観た。画面がどれも美しくWikipediaによればライブ・アクション方式という実写の映像からアニメーションを起こすという現代のロトスコープの様な技法により更に実写みたいな感じを覚えた。それは撮影の仕方からそうでかなり実写を意識した作りである。まず実線が余り無い日本のアニメーションがそもそも珍しい。それもそうなのだが多分この年代のアニメーションにはウォルト・ディズニーの「白雪姫」(1937)の影響が間違い無くある。実は「白雪姫」を観た事が無く今調べていて絶対に観なければならないと思った。しかしそれで言えば村田安司の作品はそれ以前であり「白雪姫」の影響下に無くあれ程の作品を作った事は凄いと思う。最近思うのは時代が古いとか新しいとかは本当に作品が持つ価値に対して全く無関係なのだと言う事である。そして自分はこの年代の作品が持つ価値を現代で表現したいと考えている。高畑勲が演出助手を務めたであろうシーンは観ていてかなり判った。例えば厨子王丸が山椒太夫の城から抜け出すシーンで安寿と厨子王丸の別れのシーンがある。そこの演技等は幾ら実写を基にしているとは言えどもやはり絶妙なバランス感覚の元に演出されている。また舟から落とされて死んだ菊乃というキャラクターは死後人魚となってその後現れるのだが人魚になった菊乃は一切喋らないのが良い。アンデルセンの「人魚姫」(1837)と同じく声が出ないという意識だったのかも知れないが凡庸な作品ならば絶対に喋らせるだろうなと思う。やはり演出とは引き算だと思う。見せるのは意外と簡単だが見せないのはセンスが伴うからである。1つ「安寿と厨子王丸」で判らないのはネズミとクマとイヌの存在である。想像するにこの3匹を登場させる事に若い高畑勲は反対したのではないだろうか。それはこの3匹だけリアリティラインが異なるからである。つまり動物が喋る世界線でありそこだけがこの作品で浮いているのである。これも推測であるが余りにも悲劇的な内容でありあくまでも子どもの為のアニメーションとして何か子どもに対してのサービスを入れる必要があったのでは無いだろうか。だから3匹が出て来るパートには必ず昔話みたいなオチが付いている。高畑勲の特徴として同じテーマを何度も繰り返す事があると思う。そしてそれはこの「安寿と厨子王丸」が原型になっている物が幾つかあると思われる。例えば冒頭に安寿が琴を弾くシーンなどは後年の「かぐや姫の物語」(2013)でそっくりのシーンがある。これはかなり穿った見方かも知れないがネズミとクマとイヌの3匹の存在があったからこそ後年の「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)があったのかも知れない。

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村田安司という切り絵のアニメーション作家について調べてみたがやはり情報が全然無い。YouTubeにあった「瘤取り」(1929)を観て衝撃を受けたのだが余りにも美麗な作画である。想像だが切り絵なので一度描いた絵を切ってアニメーションのセル画みたいな感じで動かして撮影したのだろうか。全く評価されていない天才はきっとどの世界にも居るのだろう。先日携帯会社から連絡があった。その時電話を取って携帯料金のプラン変更と聞いて面等臭いと思い適当な用事を付けて切った。その後も掛かってきてずっと無視していたのだが昨日何となく電話を取った。爽やかなオペレーターの男性と20分程話した。自分はこういうコールセンターの仕事とかは出来ないなと感じた。結局押しに負けてプランを変更したのだが自分は一度かなり勇気を出して良いですとプラン変更を断った。が向こうが意外と強気に来たのでそれに根負けしてしまった。三木康一郎の「トリハダ 劇場版」(2012)でコールセンターに勤める主人公が嫌がらせの電話を受けるシーンがあったが多分そんな頭のおかしい客も中には居るだろうしそもそも自分も含めて営業の電話に対して人はかなり乱暴な態度を取る。それを丁寧な口調で受け止める精神的なストレスは計り知れない。どれだけ楽で高給だとしても絶対自分はやりたくない仕事である。今高畑勲についての熱が高まっている。高畑勲が関わった作品を含めて映画を観直そうと考えている。

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メルカリで以前から探していた「ドクタースランプ」(1997)のDVDBOXが何と5万3千円で売られていて即購入した。メルカリで大体10万位の相場なのでかなりお得な買物であった。最近気付いたら寝ている事が多くかなり疲労が溜まっている。そしてその弊害で朝方人間になっている。今日カメラを買って来週は撮影を兼ねて黒沢清の「黒牢城」(2026)を観に行こうかなと漠然と考えている。昨日夕方に「知的探求フロンティア タモリ・山中伸弥の!?」(2025)でがんについての特集をしていた。がんは人間が1つの受精卵から40兆個の細胞に分裂する過程で必ず起る遺伝子のコピーミスらしい。こういう話を聞くと言葉では理解出来るのだが余りにも実態が無いというか想像がつかないというか何だか変な気分になる。そしてがんは進化しているという話でまるで宮崎駿の「風の谷のナウシカ」(1984)の腐海みたいだなと思った。つまり正常な細胞の中においてはがんは悪なのだがそれは進化している証拠なのである。アニメーションのプロットを描いていてつくづく作品を作る事はその人間が普段抑圧している感情とかを解放する作業なのだと思う。前にも書いた気がするが自分は昔バトル漫画を良く描いていた。それはバトル漫画ばかりを読んでいたせいもあるのだがそれ以上に他人を殴りたいという欲望が根底にあった為である。今全くそんな漫画を描きたいとは思わない。訳あって最近島袋光年の「トリコ」(2008)の最終巻ら辺をKindleで読んでその当時の気持が蘇ってきたのである。とにかく殴るし爆発するし凄まじいテンションなのである。最近かなり出費がかさむので今日からは節制して生活する事にする。高畑勲についての文章を読んでいてすっかり煽動されてしまった。やはりアニメーションという物は深く考えて作らなければならない。今までも考えて作ってはいたがもっと突き詰めれる部分はあるしアニメーションはそれだけの余地のある素材なのである。思うのだが結局の所今の若い世代にしても所謂大衆的なアニメーションから逃れてセンスが良い物を追っていくと自然と高畑勲に行き着くのである。自分がそうである様にきっと何処かで今のアニメーションに対するアンチテーゼを持った若い世代は居て彼等は少なからず高畑勲の影響を受けざるを得ないのである。色々と調べる内に村田安司という凄まじい人間に辿り着いてしまった。非常に情報が少なく自分もまだ理解が及んでいないのだが切り絵を使ってとんでもないアニメーションを1920年代後半に作った日本人である。ちょっと凄すぎる。そして自分が目指すべき目標はこれであると感じた。今カメラのキタムラに行ってきた。望遠レンズとは別に普通に風景を撮る用のレンズが欲しいと思いレンズキットを買おうとしたが店舗に在庫が無く注文をかけて届いたら取りに行く運びになった。

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業田良家の「自虐の詩 下」(2014)を読む。「自虐の詩 上」とは打って変わって幸江さんの過去の話にスポットライトが当たりかなり作風が異なる。非常に突き放した画風で有りながら話は極めてシリアスで哀しくそのギャップがかなり涙腺を刺激する。つげ義春的な汗の表現や4コマという素材自体の軽さが全てギャップとして機能していて凄い。岡本螢の「おもひでぽろぽろ」(1987)はこの「自虐の詩」から影響を受けている気がする。幸江さんの学校での経験は誰しもが思い当たるあるあるネタなのだがそれをこの作風でやるから意味があるのである。そしてそれを経て水商売とかに手を出しながらイサオと出会い恋に落ちたからこそ幸江さんはイサオの傍若無人な態度にも耐え得る精神力を持っているという謎の説得力に繋がっている。この漫画で1番好きなのは熊本さんである。彼女の存在はラストにも出て来るのだが最も人間として真っ当な人である。タイトルの自虐の詩とは普通に考えれば幸江の事なのだが意外とそれがちゃんと芯を食っている感じが無い。この漫画は全て芯を食う感じと言うよりも少し外した所に魅力がある。わざとなのか偶然なのか4コマとして成立しているのか怪しいような箇所もあるがそれも引っ括めて魅力であると言えると思う。楳図かずおの「赤んぼ少女」(1967)をKindleで読む。今調べて1967年と知って愕然とした。久し振りに楳図かずお節を食らってその衝撃もあるがやはり時代から言えば早すぎたのだと思う。今読んでも面白いし状況説明を全て台詞で言うのはやはり演劇的であるし何よりも凄いのはちゃんと気持ち悪くて怖いのである。読んでいて怖いと思うというのは相当な技術でありそれはサスペンス要素とかそれ以前の設定とかに全て掛かっていて多少の無理矢理感はあれどちゃんと物語として成立している。美少女と虫とか綺麗な物と汚い物の対比をしっかり意識しているしそれが物語に通底していて素晴らしい。楳図かずおってやはり凄い。がその凄さは一般に漫画を楽しんでいる方には到底理解出来ない歪んだ凄さなのである。どちらが優れているとは断定出来ないが普通では満足出来ない自分の様な読み手には刺さりまくるのである。カメラは買う事にした。今日お金を卸して来て今週の日曜日に手に入る。身近に居る鷹を観察していると意外と周りに多く居てびっくりする。最近音楽に対する熱が冷めてきている。音楽をそもそも聴きたいと思わない。本当に興味の移り変わりが激しい性格である。

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6月が終わる。今日スーパーで買物をしていて明日の朝ごはんのおにぎりを買おうとしていたら隣の惣菜に3割引のシールを貼っているおばちゃんが居た。何となく隣のおにぎりにも貼ってくれないかなと少しだけ待っていたら話し掛けてくれて自分が買いたいおにぎりに3割引を先に貼ってくれた。意外とこういう事って嬉しい。野鳥観察について今日色々と調べた結果自分はクマタカを狙って撮影する事にした。本当はイヌワシとかが格好良いのだがまず高知県には居ないし現実的に狙えそうな鷹はクマタカだと判断した。自分の山の家に生えている木は檜であり調べてみると檜の木にも営巣しているらしくまず巣を見つける事から始めなければならないが撮れそうな予感はしている。色々とバーダー(birder)と呼ばれる鳥を観察する人のブログとかを読んだが何故か判らないが皆偉そうである。隙あればマウントを取ってくる感じでそこは少し不快である。とか書きながら自分も気づかぬ内にマウントを取っていないか心配になって来た。自分のポリシーとして偉そうになりたくないというのがある。強そうに見せるとか格好つけるとか全部嫌いなのである。偉そうに見える位ならば馬鹿だと思われた方が余っ程マシである。鳥って調べれば調べる程に滅茶苦茶種類が居る事が判る。鷹でもミサゴとかは知らなかった。メジャーなスズメとかツバメとか以外にも小鳥と呼ばれる鳥には聞いた事の無いような種類の鳥が居る。今妄想しているが週末に鳥を観察して撮った映像を家に帰ってきてインターネットで調べてこの鳥の名前はこれだとか言ってテンションが上がっている気がする。1つ懸念があるのは動画がちゃんと撮れるかどうかという点である。一応店員さんにも聞いたが少し微妙な感じの返しで自分もはっきりとは理解していない。やはり使うしか無いだろう。

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カメラのキタムラに行く。カメラに関しては素人で入ってすぐに居た店員さんにまず聞いてみた。その店員さんが非常に優秀な方で一から十まで丁寧にカメラについて教えてくれた。結局当初の予定通り本体はSONYのα6700にしてそれに望遠の150mm〜600mmのレンズを買う事にしてその他諸々のアタッチメントを付けて見積してもらった。合計で約40万円である。別に全然買える値段なのだが流石に40万円の買物をすると考えるとやはりもっと調べてから買った方が良いのではと思った。がしかし何でもそうだが結局やってみないと判らないのである。カメラだし別に野鳥観察に飽きたとしても別のレンズを買えば普通に風景とかも撮れる訳でそう考えれば40万円は妥当な気がする。がふと我に返るとやはり高過ぎるのでは無いかとも思う。今週末に店頭でセミナーがあるらしくその時にクーポン券が配られるので今週末に行く積りである。だからこの1週間は本当にこのカメラを買うのかをずっと考えなければならない。カメラに関しての悩みもそうだが多分カメラを本格的に始めるとなるとパソコンが必要になって来る。しかもハイスペックな奴である。こうやって人はカメラ沼にハマって行くんだろうなと思う。でも多分自分はカメラを買う事になるだろうと思う。カメラという趣味はランニングコストが少ないという記事を読んだが確かにそうだしやはり鳥という生き物に対して今最も興味がある。前にも書いたがそれは憧れなのである。自分もあんな風に生きれたら良いなという叶わない願いなのである。ニュースは最近観ていない。サッカーもトランプにも全く興味が無い。それよりも今飛んでいる鳥は何ていう名前なのかとかこの鳴き声は何の鳥なのかとかの方が遥かに興味がある。アニメーションの方はそろそろプロットが完成しそうである。が流石に体力的にそろそろ休みたい気持がして来た。個人的な事だがこの半年位ずっと仕事を休んでいない。かといって寝る間も惜しまずに何かをしている訳では無い。眠い時は寝るしゲームしたい時はするし1人なのでだらける時はだらけている。がそれが逆に良い息抜きになって健康優良児になり過ぎている。風邪を引きたい。

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父から型落ちのcanonの一眼レフを借りた。エントリーモデルの様な物で流石にいきなり新しいカメラを買うよりもテストとして古いカメラを触ってみる方が良いと考えたからである。実はカメラを触るのは初めてで起動の仕方から撮影の仕方まで色々と手探りで試行錯誤しながら操作方法を覚えた。早速アパートの近所を散歩しながら野鳥を探した。近所を散歩するのもかなり久し振りでそれも新鮮だったのだがいつもなら音楽を聴いている所を野鳥を探すためにイヤホンをせずに町を歩く事がもっと新鮮であった。町の音に耳を澄ませながら鳥の鳴き声を探して近くの山を登った。まずこの季節に野鳥観察をするならば虫除けスプレーが絶対に必要である。15分程度滞在しただけで10数箇所蚊に噛まれた。元々蚊に噛まれ易い体質ではあるし半袖だったせいもあるが今度からは持って行く様にする。そして当たり前だが鳥は近くでカメラを向けると逃げる。だから遠くから撮る望遠のレンズが必要であるし三脚も要るし長時間待つ可能性を考えると持ち運び用の椅子も要る。夏ではあるが森林の中は意外と涼しい。昔良く聞いたマイナスイオンという物があるのか森の中は静かで木漏れ日も美しく今日少しだけではあるが体験してみて自分に合っているなと感じた。明日カメラのキタムラで目当てのカメラがあるか聞いてみる積りである。黒沢清の「黒牢城」(2026)を映画館で観たいのだが時間が無くて観れていない。今住んでいるアパートはかなり優良物件だなと最近改めて思った。未だに隣人は居ないし階下にも住人は居ない。これってかなり快適というか最高である。本当に普通に音を出して生活しているし全く他人の存在を感じない事がこんなにも心地好いのだと思った。それはYouTubeで同じくアパートに住んでいる方が凄く隣人に気を遣って小声で喋っているのを観たからである。滅茶苦茶セコい優越感ではあるがやはり1人暮らしなのだからそんなストレスは感じたくないよなと思ったのである。

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予てから考えていた野鳥観察について本格的に始めようと考えている。前から鳥を見るのは何故か好きで色々とドキュメンタリーとかを観ていたのだがYouTubeで野鳥観察の動画を観ていて自分もやりたいという欲望がムクムクと出て来た。今日家電量販店で目当てのカメラを探したが見つからなかった。一式揃えると30万近く掛かるらしい。しかし別に金に困ってないし逆に使い道に困る程だったのでこれは好機である。古今東西生物に魅せられる人間は居るがそこに通底しているのは生物が本能だけで生きている姿が絶対に人間では到達し得ない境地にあるからだと思う。周囲を警戒しながら餌を食べているオオタカには当然悩み等在りようが無い。人間を縛るあらゆる煩悩から解放されたいという欲望が生物に魅力を感じさせるのだと思う。全く下調べをせずにいきなり山に行って鳥が撮れるかどうか試してみる積りである。今の時代調べれば幾らでも情報が溢れて来るので自分は必要最低限だけ調べて後は自分でやる方が記憶にも残るしその方が楽しい。相曽晴日の音楽を今日知った。綺麗な歌声で少し古めかしいがかなり良い。最近色々な方のブログを読んでいるがほぼ毎日更新しているブログは当たり前かも知れないが今の映画とか今の音楽とかの事しか書いていなくてびっくりする。自分は今流行っている映画にしても音楽にしても嫌いなので絶対それをしたくないと思うのだが平然とそれをしていて同じ日本人とは言え外国人の様な別の人種なのだなと感じる。だってそれは自分は全くアイデンティティの無い人間だと表明している様な物だからである。がこれは自分が映画とか音楽とかで自己表現をしようとしているからでありそういうブログを書いている方は他の何かで補完しているだけだとは思うのだが余りにも馬鹿の様に流行りを追って恥ずかしく無いのかとは思う。

今日の日記

 

先日寝ている時にふと目が覚めた。それは薄く聴いている音楽が余りにも良かったからである。実は前にも同じ事がありその時は由紀さおりの「イズ・ザット・オール・ゼア・イズ?」(2011)だったのだがやはり寝ているとは言えそのアンテナは常に立っているのだと思う。それは冨田ラボ Feat.キリンジの「香りと影」(2003)であった。半覚醒の状態で聴きながらキリンジでこんな良い曲があったかなと思っていたが冨田恵一の楽曲であった。鳥山明の「Dr.スランプ」(1980)のアニメのリメイクである「ドクタースランプ」(1997)を観たいのだがサブスクリプションに無いし買おうとすると完全版で約9万位する。欲しいが流石に9万円は手が出ない。日記をずっと書いているがそろそろ義務感が出て来た。別にちゃんと決めた訳でも無いがずっと2日に1回のペースで書いていて少し間隔を開けた方が良い気がしてきた。ただ書く事でアウトプットになっているのは確かでありこの習慣は続けた方が良いと思っている。