こんにちは。文庫本の1巻を読み終わりました。楳図かずおの歴史の中でこの「洗礼」(1974)は「漂流教室」(1971)の次の作品であり後に「まことちゃん」(1976)「わたしは真悟」(1982)といった作品の流れの中にあります。僕は何故か最初に「漂流教室」を読んで次に「わたしは真悟」を読み次に「おろち」(1969)を読んでから「洗礼」を読んだので時系列がぐちゃぐちゃになっています。相変わらず凄い漫画です。主人公の母親の名前は芦川いづみから来ているのでしょうか。伊藤潤二がよく使っている眼球の光をまばらに散らしたみたいな描き方はこの辺りから生まれたっぽいです。黒沢清がホラー映画はホラー演出よりも怖がっている人間のリアクションの方が怖いと言っていて正にそれを体現したような漫画です。巻末の手塚眞の解説で何となくオチが分かってしまいましたがまああまり関係ない気もします。楳図かずおの漫画を読む時に僕は意外と背景とか周りの効果線に目が行ってしまいます。結構色んな種類の効果線を使っています。人間の頬が赤くなる描き方が今のような頬だけに線を描くのではなく目の横辺りまで線が及んでいて怪我のように見えます。主人公の若草さくらが母親の秘密に気付く場面は非常に理想的なホラー演出です。
20240424
2巻読み終わりました。これ何かに似ているなと思ったらジャウム・コレット=セラの「エスター」(2009)でした。インターネットで調べてみると結構同じことを考えている人が居ました。他にもスティーブン・キングの「ミザリー」(1987)にも似ているなと思いましたが何が恐ろしいかと言うと全て「洗礼」(1974)の後に作られた作品だということです。Yahoo知恵袋によるとウィリアム・マーチの「悪い種子」(1954)という小説が元ネタではないかと言われていますがどちらにしても楳図かずおの後年への影響力は凄まじいものがあります。1巻で母親のいずみがさくらの身体を乗っ取った後に先生に抱き着くシーンがあります。そこで眼球がぐるんと上に向くのですがこれは押見修造が「惡の華」(2009)や「ぼくは麻理のなか」(2012)でよく使っているものです。2巻はもっと凄いです。楳図かずおはやっぱり凄いです。僕は「わたしは真悟」(1982)を先に読んだので楳図かずおは何処までも直接的にセックスを描かずにそれを表現しようとしているんだろうなと思っていたら「洗礼」でがっつりやっていました。最早エロくもありません。ただ恐ろしいというかお花畑のシーンの前に先生の奥さんの陰部をアイロンで焼こうとするシーン辺りからえっ成人の女性の裸を描いているという驚きともうそこまで行くのかという展開の早さに笑ってしまいました。さくらのすることは全て子供じみた言ってしまえば馬鹿らしい小細工なのですがそれが見事に機能してしまう理不尽な世界観は黒沢清の「クリーピー 偽りの隣人」(2016)とかにも通ずるものがあります。悪役のすることが全て上手くいってしまう面白さです。これが少女漫画で連載されていたというのが驚きです。楳図かずおという作家はこんなに凄いものを作っているのにそれが全く僕たちの世代に浸透していません。はっきりと断絶しています。それは多分こういうダーティな作風で子どもにはとても見せられないものだからです。でもそれは何処まで正しいのかなと思います。
20240425
4巻まで読み終わりました。楳図かずおの漫画は大抵終盤の展開が錯綜しますがこれもかなり錯綜しています。オチは素晴らしいのですがそこに持って行く方法が結構強引で3巻から出て来たルポライターなどは話の都合のために作られた感じがあります。しかしそれを補って余りあるラストシーンでした。3巻で一番面白かったのは若草いずみの身の上話で田中絹代をもじった田中絹子という女優を4歳のいずみがわたしはあんなブスじゃないと駄々をこねるシーンです。これは流石に笑ってしまいました。だって物語上別に架空の女優の名前でも良いのに明らかに田中絹代に対する楳図かずおの思いを感じてしまったからです。田中絹代の名誉のために言っておくと別にブスではありません。派手な顔ではありませんが和風美人という感じの朴訥とした女性です。監督の名前も小津安二郎をもじった大津安二郎だったりこの辺はふざけてたのでしょうか。でも楳図かずおが使う登場人物が泣くシーンで両手で顔を覆い「わっ」と泣く仕草は小津安二郎の映画で印象的に使われる泣き方です。だから多分好きなのでしょう。4巻でいずみのばあやが出て来ます。そこでばあやが物語の核心に迫るいずみの医師の話をするのですがそこの演出というかばあやの記憶を辿って回想するシーンなのですがそこでばあやは全て喋り台詞で状況を説明します。かなり変てこなシーンですが個人的に僕は理解出来る気がします。いや間違っていると思いますが多分回想シーンにしたく無かったのではないかと思います。あくまでも時間軸は現在のままでばあやの話によって過去を皆が想像しているという演出にしたかったのだと思います。何故なら過去に戻ると物語のスピード感が損なわれるからです。ラストの台詞は黒沢清の「スパイの妻」(2020)で蒼井優が笹野高史に言う台詞とほとんど同じでした。ここまで読んできて黒沢清が楳図かずおに多大なる影響を受けていることを感じました。実は今「神の左手悪魔の右手」(1986)を最初だけ読んだのですがこれもかなりやばい感じです。どう考えてもこんな始まり方で話が進むのかというような始まり方でワクワクしています。