最近考えていること

こんにちは。オリヴィエ・ダアンの「グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札」(2014)を観ました。グレース・ケリーニコール・キッドマンが演じています。僕は何故かニコール・キッドマンが好きなのですが多分声が可愛いからです。いや演技も良かったです。母親に電話する長いワンカットではここしか無いタイミングで涙を流していて良かったです。最近の映画を観ていると編集が一番気になります。この映画も変な編集でした。ラスト辺りで中盤の演技の練習の場面がもう一回出て来て明らかにそこで使わなかった素材を貼りましたみたいな編集でびっくりしました。自主制作短編を作るようになってからYouTubeで自主制作と検索して色々な方の動画を観ています。結構面白いです。多いのはアニメーションです。これも玉石混交ですが中には素晴らしいものもあります。昨日観た実写の作品では女の子が友達の女の子に向けて作った歌を送るという動画がありました。これはちょっと余りにも僕の中に無い発想で凄いなと素直に思いました。高校生が作った作品も何本か観ましたがうーん僕は面白くありませんでした。理由はいくつかあります。まずその作っているチームの監督が多分映画を観ていないことがあります。手ブレとか風の音が入っていても気にならないのは映画をそもそもある絶対数観ていないからだと思います。前も書きましたが劇伴も皆示し合わせたかのようにピアノを使っていたりタイトルクレジットも別に良いのですがちょっと言葉を選ばずに言えば調子に乗ってる感じがします。あと最近の作品では当たり前のようにナレーションを使っていますがナレーションには強烈な異化効果があります。それはつまりこの音声は今の映像とは違う空間で録った音声ですという表明だからです。何故ナレーションが増えたのか理由は不明ですが恐らくアニメーションの影響がある気がします。ナレーションと書いていますが所謂天の声のようなものでは無く心の声として使っているもののことを言っています。いやでもそういえば「前略おふくろ様」(1975)でナレーションを心の声として使っていました。古くからある手法ですが今の僕はそれに反対したいです。理由はそれを使うと映像の文法が成り立たないからです。例えば主人公が家を出るために鍵を探しているとします。心の声があるとそれは一発で主人公の顔のショットにその状況をナレーションで言わせれば良いのです。しかしそれではつまらないと思います。家を出るための鍵を探しているならまず何かを探している主人公を俯瞰から何パターンか撮り時間経過を表しつつ何か違う鍵を見つけてそれを鍵穴に合わせて違うなみたいな下りもあってそれで家を出るからこそその場面が映画として成立するのだと思います。これは一例なので全てがそれである必要はありません。でも最近の作品を観ていると余りにも映画的なシーンが無くてがっかりします。メルカリでDSの「ぼくらはカセキホリダー」(2008)を買って遊んでみました。メルカリで買ったため前の所有者のデータがあってかなり進んだ状況で遊びましたが難易度の高さに心が折れました。僕は以前このソフトを持っていて面白かった記憶があったから今回買ったのですがいや面白いのですがそれ以上に難しくて今の僕はゲームにそこまでの情熱を持てないのだなと色んな意味で大人になったなと思いました。メルカリでは他にも色々頼んでいます。来るのが楽しみです。