ジョン・カサヴェテス監督作品 オープニング・ナイトについて

こんにちは。同監督の「グロリア」(1980)をまた観ました。全編通して鏡が多用されていることと、改めて街を丸ごと使った逃走劇の面白さを感じました。流石に車がひっくり返るような場面はちゃんと段取りしていると思いますが、多くの場面は即興で演技している感じがします。また背景の人間ががっつりカメラを観ていることも面白いです。これは僕の想像ですが、いきなり街中でカメラを回し出して通行人たちの注目の中、演者が見られている意識の元演技をしているからこそ良い演技が生まれているのだと思います。「オープニング・ナイト」(1977)は劇中劇です。黒沢清の語るジョン・カサヴェテスについての言葉で引っ掛かっている言葉があります。軽く引用すると彼は娯楽でも芸術でもない映画を撮ったというニュアンスの言葉です。この映画はひとつの場面の結末がないものが多いです。それはつまり映画というよりも記憶に近いような不確かな印象を受けます。

20230420

早川由真のPDF「ジョン・カサヴェテス「オープニング・ナイト」における画面上の身体の存在論」を途中まで読んで止めました。面白くなかった訳ではありません。最近思うのですが映画の感想を書くときに他人の感想やその作品についての情報を調べることが正しいのかどうか分からなくなっています。先のPDFにしても読めば何かしらの答えを得られることは間違いないのですが、それは僕が初めて観た時の印象とは違うものです。つまり主観と客観の問題で今は気分的に主観を重視したいのです。とか言いつつもやはりちょっとだけ読んだ内容から色々自分なりに考えたことがあります。ジョン・カサヴェテスは本作におけるマートル(ジーナ・ローランズ)を基本的な複数の現実を反映した人物だと評しています。複数の現実とは現実のジーナ・ローランズが映画で演じるマートル、マートルが演劇で演じるヴァージニア、という入れ子構造のことだと思います。他にも劇中の演劇の名前がセカンド・ウーマンだったり役名のヴァージニアとは英語で初めて、という意味だったりすることも物語の内容と触れ合っています。また監督のジョン・カサヴェテスジーナ・ローランズは夫婦でありそれも複数の現実のひとつです。マートルが交通事故で死んだナンシーの存在を初めて確認する場面で鏡が印象的に使われています。このナンシーという少女はマートル自身の若さの象徴として現れます。ナンシーが現れる場面だけはこの映画の中で唯一幻想の世界です。思えば土砂降りの中で現れる生きているナンシーの場面も幻想のような紗の掛かった映像でした。交通事故に対する周りの男たちの無関心とその後に降霊術師の元に行った時女性しか居ないこと、この映画の序盤に語られる夫婦の惰性の関係からも分かるように男女間に分かりあえない不可侵の領域があることを表しています。これはPDFに書いていたことですが、この映画は画面上で演技をするとはどういうことか、ということについて描いた作品らしいです。それについては僕も少なからず同じことを思っていて、というかこれは予てから思っていたことですが、もう一度冷静に人間がカメラの前で演技をすることを考えてみるとそれはかなり異常なことであり、そこで生じる様々な違和感を消すためにドキュメンタリーがあり、それが発展してモキュメンタリーが生まれたのだと解釈しています。モキュメンタリーとは簡単に言えば嘘のドキュメンタリーのことで、でもそれは言い換えると普通の映画と同じことを違うアプローチで見せているだけのことです。でジョン・カサヴェテスはそれを普通の映画の中で物語の力だけで払拭出来ないかということを模索したのだと思います。今ジョン・カサヴェテスの作品を年代順に逆行してつまり新しいものから古いものにかけて観ているのですが、「ビッグ・トラブル」(1986)にしても「グロリア」にしても物語自体の面白さが強くあります。この「オープニング・ナイト」にしてもやはり単純に物語が面白いです。劇中劇と次第に壊れていく女優、演劇という何度も同じものを座っている観客に見せる芸術を映画と同じものと捉えて、それを繰り返す中で違う可能性がないのか何とか藻掻く様子はジョン・カサヴェテスの映画に対する思いそのものだと思います。マートルの自己の中の幻影の描写なんかはホラー映画のようであり、映画の結末は大衆的なコメディになります。これも示唆的というか結局観客はこういうものが好きなのだろう、という諦めにも取れます。