最近考えていること

こんにちは。アリ・アスターの「ボーはおそれている」(2024)でボーが恐れているのは実は母親ではなく映画の外に居る観客なのではないかという一応の結論のようなものが出ました。映画の序盤にホテルの部屋の鍵を盗まれて母親の居る場所に行けないみたいなシーンがあります。この時点から既に夢でボーが潜在的に恐れている母親に会いに行きたくないがための想像だという解釈も出来ますがそれよりも映画という大きな運命が理不尽にボーを行けないようにしている風に見えます。前にガラスを隔てた演出について書きましたがその演出があるのは前半のホテルから夫婦の家のパートまでです。森の演劇一座のパートでボーはこれは僕の物語だと叫びます。ここでボーは観客の立場から演者の立場に変わったのだと思います。ボーの家で母親はずっと最初から見ていたわと言います。これはつまり母親=観客でボーは傍観者から当事者に変わったことを意味していると思います。いやボーが恐れているのは正確に言うと観客というより観客の欲望なのだと思います。それは映画の中で繰り返しこれは映画だというメッセージがあってある時ボーはこれは映画なんだということに気付き観客が展開として次はどんな凄惨なことが起こるのか想像することを恐れているのだと思います。この映画のファーストカットは暗くて良く見えませんでしたが恐らく母親の胎内の映像です。改めて面白いと思ったのは映画の中で腑に落ちないことがあってそれはとても理不尽なのですがそのことで映画の虚構性がより表面化します。それでも進んで行くことが面白いのです。2つ程分からなかったのは最後のコロシアムでボーの母親が掴んでいた手すりを壊してそれが下の水に落ちるシーンがあります。あれは何だったのでしょうか。もう1つボーが森から抜け出してヒッチハイクして家に帰るまでの多分4カットくらいの映像がそこだけ現実みたいな撮り方だったことです。何故あそこだけ現実だったのでしょうか。ボーの服装がパジャマみたいなのはやっぱり全部夢だからだと思います。この映画はエミール・クストリッツァのようでありレオス・カラックスのようでありそしてやっぱりフェデリコ・フェリーニのような映画でした。そしてここまで映画という構造をギリギリまで攻めないと満足出来ない程に映画は発展したのだなとも思いました。