最近考えていること

こんにちは。今日は長くなります。昨日は健康診断と先月ハクビシンに噛まれて破傷風のワクチンを打ったのでその2回目のワクチンのために病院に行きました。どうでも良いことですが健康診断のために看護師が10人くらい居たのですが多分8人くらいが眼鏡をかけていました。余りにも待ち時間が長いので楳図かずおの「おろち」(1969)の3巻を読破しました。「おろち」の構成って良く出来ているなと思います。主人公のおろちがある1人の人間を見守るという話なのですが短編を作る時にぶつかる物語の急な展開の不自然さをおろちの超能力で打ち消しています。健康診断で僕は血圧が160ありました。看護師さんが少し驚いていて測り直しても変わりませんでした。緊張して上がるという話を聞いたことがありますが残念ながら全く平常心でした。血圧が高いことは何かショックでした。何というか見た目では全然分からないので余計に自分の身体が心配になりました。思い当たる節はやはり塩分の過剰摂取つまりラーメンの食べ過ぎでしょう。それと最近少しだけお酒を始めたことも原因としてあるかもしれません。昨日は火曜日だったので午前中に病院が終わり午後は図書館に行こうと決めていたのですが僕が行きたかった図書館は蔵書点検で閉まっていてテンションが下がりました。仕方なくローソンのイートインスペースで作業しました。作業とは漫画なのですがそのローソンで漫画を描いている時に何故かふと前々から考えていたことが結実しました。それは漫画を何の為に描いているのかということです。これは非常にややこしい問題です。結論から言えば自分の為に描いているのですが何と言えば良いのか例えば少し前なら隣に綺麗な女の子が居たらその女の子に褒められたいもしくは認められたいから漫画を頑張れるという思いがありました。でも今はそう思えなくなっている自分に気付いたということです。もっと広く言えば世の中全てが今は嫌いになっています。僕は周期的にこういう心理状態になります。吾妻ひでおの「夜の魚」(1993)をメルカリで頼んだのですがそれは「失踪日記」(2005)を読み返したからです。今凄く遁世したいのです。社会の中の小さな矛盾が許せない気持になってくるのです。だから多分周期的になるというのは社会生活の中で積もり積もった矛盾とか疑問とかが自分の中で一気に噴出するタイミングなのだと思います。それと自分が余りにもメジャーなものを遠ざけ過ぎていることもあります。最近同年代の人の会話を聞く機会が多かったのですが全く違う生き物のようでした。観ている映画も聴いている音楽も多分僕とは全然違うのだと思います。このジレンマは死ぬまであるのでしょう。あと今描いているものが夢と現実が入り交じる話を描いていることも不安定な気持に拍車をかけています。全然気が狂うとかそんなところまで追い詰められてはいませんがその整合性の無い話がどうしてこんなもの描いているのだってなります。漫画を何の為に描くかというのはそれを誰に見せたいのかという問題にも繋がります。それは漫画編集者なのか隣の女の子なのか僕の場合は見せたいのは自分でしかないと思ったのです。編集者のアドバイスも女の子の褒め言葉も要らないと思ってしまったのです。宮崎駿のある講演の文章を読みました。宮崎駿は「パンダコパンダ」(1973)を作ってそれを映画館で子どもが集中して観ているのを見た時にこれからは子どものために映画を作ろうと思ったそうです。宮崎駿の「君たちはどう生きるか」(2023)って改めて宮崎駿の自叙伝でもあるなと思ったのはその講演の中で実家に居た女中さんが私はおひつでご飯を食べたことがないという話を聞いて子ども心に強烈な不公平を感じたというエピソードがあって「君たちはどう生きるか」でも記憶が朧げですがおひつに集るおばあちゃんのシーンがありました。フェデリコ・フェリーニの「女の都」(1980)「カサノバ」(1976)のDVDボックスをメルカリで頼みました。フェリーニには何かありそうです。今日は少し世の中を肯定的に見れています。何故かというと今日は仕事があって人と会話したからです。最近思うのは山の上で1人で生活すると多分昨日のような状態がずっと続くのだろうということです。老人の心境はそれに増して老化が追い打ちをかけてきます。前にも書いた気がしますが老人ドライバーの交通事故はそういった原因もあると思います。気が狂わない方がおかしいのです。