倉本聰脚本 前略おふくろ様Ⅱについて So Kuramoto Screenplay About the mother-in-law II 

こんにちは。amazonで頼んでBlu-rayが来ました。どこかの掲示板で一期の「前略おふくろ様」(1975)は主人公片島三郎(萩原健一)の板前としての成長に重きをおいていて、板頭の村井秀次(梅宮辰夫)との師弟関係や渡辺かすみ(坂口良子)との淡い恋愛など良い意味でどこか明るいドラマだった、と記憶しています。僕も一期は全て観ましたが何分5年くらい前の記憶なので曖昧ではあるのですが、この「前略おふくろ様Ⅱ」(1976)は一話の始まり方から分かるように、犯罪とか借金とか自殺とか社会の暗部が常に側にあって、笑って騒いでいてもどこか虚しくまた人間関係において人の嫌な一面を垣間見るようなそのような話が多い気がします。その辺りの手法は倉本聰の手練手管というか、あることが起きてそれがダメになっていることに気付かずにはしゃぐ様子を丁寧に描写していたたまれなさを強調しています。また恋愛においてもこの二期はかなり荒んでいるというか、かすみちゃんとの関係が特に顕著で普通なら出さなくても成立すると思うのですが、前作の関係性を踏まえた上での拗れた関係性はとてもリアリティがあります。どうでも良いことですが主人公のこの語りのストーリーテリングは、当時かなり画期的だったのではないかと思います。このドラマは基本的に主人公から見た世界を映していて例外的に主人公がナレーションでメタフィクション的な、「そんなことは知らなかった」と言う事もありますが、基本的に主人公片島三郎の見ている世界なので、何と言うのかある人物が主人公が居ないところで何をしているのかみたいな描写があまりありません。それが良いのです。だから変に感動的な演出とかが排除されて、スタイリッシュなドラマになるのだと思います。感動的な演出の排除はショーケンの演技も一役買っています。つまり主人公が感動的な台詞を言う場面で、敢えて「上手く言えないけど」と空かせるからです。この主人公のおどおどしている演技がとても格好良いのだから驚きです。これを観ると明日から真似したくなります。また語りの型が決まっていて「〇〇していた。前略おふくろ様、〇〇していました」と2回繰り返して言います。語りがあることで主人公の心の声が視聴者は知ることが出来て、つまりドラマ中の演技である建前と異なる本音を表現出来ます。そしてこれは個人的なことですが、僕は竹内かや(八千草薫)が好きです。八千草薫自体が好きなのですがまあこの人を観れただけでも観る価値はあったと思えます。最近思うのですが昔の女優の演技では許せるのに、最近の女優の演技で同じことをしても許せないと感じるのは何故なのでしょうか。例えばこのドラマの八千草薫にしてもとても可愛らしい言葉遣いや仕草をしているのですが、これと同じことを今のドラマでやったら同じように思えるのかということです。もしかしたら過去という絶対に不変なるものだからこそ許せるのかも知れません。それとこの頃のTVカメラの仕様なのか画角が狭く映像が近い印象を受けます。あと煙草を吸うシーンがとにかく多いです。演技として煙草を出してマッチを擦ったりライターを着けたりする一連の行動がとても視覚的に心地良いです。

 

20221212

室田日出男、川谷拓三、小松政夫大滝秀治などの演技が好きです。中でも半妻(室田日出男)の演技が特に好きです。小松政夫キャンディーズの「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」(1976)で好きになりました。今は少なくなった所謂喜劇人で、だからこそ演技が上手いです。ショーケンの演技を見ていて思うのは僕たちはショーケンの演技の幅の広さを無意識に感じ取って、凄いと感じているのだと思いました。劇中のカフェでは大体バックに音楽が流れていて、その中で大橋純子「砂時計」という曲が良くて、歌詞を聴き取りながら調べて突き止めました。このドラマの面白さの一つとして出てくる登場人物が皆欠陥を抱えていることがあります。今のドラマには恐らく漫才でいうところのツッコミのボジションとなる頭が良い人間が集団の中にひとりはいて、だからこそ色々なキャラクターが居ても最終的にはオチがつくのですが、例えば第十五回の半妻さんとサブちゃんのTV出演のギャランティーの下りが顕著ですが、これは二人共がボケていて、観ている我々がいやいや、とツッコむような構造になっているわけです。この辺りが僕はいじらしくて好きです。

 

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第十七回は一番僕の琴線に触れる話でした。人間関係における板挟み状態は本当にしんどいです。周囲の人間の好意も裏返り、またそういうときに限ってやけにあっけらかんとした人間が近くに居たりします。というか話が本当に良く出来ています。