最近考えていること

こんにちは。北野武の「座頭市」(2003)を観ました。うーん編集が変な映画だなと思いました。殺陣は格好良いです。井上雄彦の「バガボンド」(1998)の武蔵と吉岡一門との斬り合いのシーンはこの映画の影響を受けている気がします。編集が変だと思ったのは僕が個人的に時間軸を並行してオムニバス的に進めて行く映画が嫌いだということもあります。また血にCGを使ったことによって虚構性が増して普通の時代劇ではない映画になっています。確か深作欣二の「バトル・ロワイアル」(2000)に北野武も出演していてそれの血の感じに似ていました。浅野忠信が格好良いです。1つ嫌だったのは芸者の姉弟二人の身の上話のところです。多分「その男、凶暴につき」(1989)を撮っていた頃ならば切っていた部分だと思います。でも作品を作り続けるということはそういうことなのかなとも思います。あるブログで作家の才能は作品を作り続けることだけだという話を聞きました。過去の自分を否定してでも作品を作り続ける方が良いのかまたは常に前に進み道がどんどん無くなって何も作れなくなる方が良いのか今は前者の方が良いのではないかと考えています。「織田信奈の野望」(2010)を聴きました。やはり皆口裕子の演技は素晴らしいです。こんなにツンデレなキャラクターの演技は初めて聴きました。何回も書いているかもしれませんが皆口裕子の良さは本人が未だに緊張して新鮮な気持で演技しているところにあると思います。今日も図書館に行きました。図書館大好きです。もう桜咲いていますね。最近狸がよく道路で轢かれています。酷い時は朝だけで3匹くらい見ました。調べてみるとそもそも狸は動物の中でロードキルが最も多い動物らしいです。そして狸は夜行性で車の光に立ち止まってしまうらしくそれで轢かれてしまうそうです。調べてしまえばこれが真相ですが調べる前は高畑勲の「平成狸合戦ぽんぽこ」(1994)みたいに狸たちが結託して何か人間みたいに自殺する狸が増えてきたのかもしれないというとんでもない妄想をしていました。でもこういうところに発想の源があったりします。もう3月が終わりますね。フェデリコ・フェリーニの「カサノバ」(1976)は中盤辺りから面白くなってきました。また感想を書きます。

北野武監督作品 その男、凶暴につきについて

こんにちは。この映画は元々は深作欣二が監督する予定だったそうです。北野武の凄さは色々ありますが僕は自分を客観視出来ていることがあると思います。というかこれが初監督作品ということが驚きです。既に映画として完成されています。この映画は前半と後半で大きく変わります。前半はアンチヒーローもので後半は社会の暗部の権謀術数ものになります。最初に自分を客観視出来ていると書いたのはその前半のことです。自分が監督して主演するというのは実は凄く難しいことです。特に前半のアンチヒーローものは自分を格好良く見せるように作らなければなりません。北野武という人間は多分ナルシストではないのでここのさじ加減は凄くナイーブなところです。それを絶妙に照れ隠しもあるでしょうがセオリーを外しながらちゃんとエンターテインメントとして成立させていることが素晴らしいです。また前半は映画的なシーンが多く我妻(北野武)もよく喋るのですが後半は陰惨な展開が続き我妻が人間性を失い言葉が少なくなっていきます。この構成は黒沢清の「CURE」(1997)とよく似ています。黒沢清は他にも「復讐 運命の訪問者」(1997)で二人が撃ち合って全然弾が当たらないみたいな演出を確かしていましたがそれの元ネタは「その男、凶暴につき」(1989)だったようです。有名な冒頭のシーンがあります。ホームレスの男を少年たちが集団で暴行しています。その少年の一人が家に帰ると我妻がいきなり部屋に乗り込んでくるというシーンなのですがここの我妻の現れ方が素晴らしいです。普通の映画ならばその少年たちの悪事をどこかで見ている我妻を入れてから少年の家に行くと思うのですがこの映画では突然我妻は現れます。少年の家をロングショットで撮ったアングルの左からいきなり我妻は歩いてくるのですがそれはまるで映画の外からやってきた存在かのようです。それから歩くシーンが多いです。ロマン・ポランスキーとかロベール・ブレッソンの映画のようです。ロベール・ブレッソンは特に感じました。北野武の歩き方が格好良いです。というかスタイルとか顔とかも含めて格好良いです。清弘(白竜)のアジトでのそのそ歩いているのを後ろから撮っただけのショットが何と格好良いことか映画はこれで良いんだと改めて思いました。そしてロケーションも良いです。先日BSで山田洋次の「学校」(1993 )が放送されているのをご飯を食べながらちょこっとだけ観たのですがやはり90年代の映画のフィルムの質感と街も人もそうですがあの雑然とした感じとかが僕は好きです。今の街はそういったものが整理されて綺麗になったのですが何か物足りない気がしていてそれは光が強いほど影が濃くなるように裏側に隠された何かを感じるからなのだと思います。何処からこの映画のトーンが変わるかと言えば岩城(平泉成)の首吊り自殺からだと思います。そこからの編集は人間の顔から場面が変わるようになり映画が加速して行きます。この映画の根底にあるのはコメディなのですがそれは最早笑えません。いやそのチグハグさを含めた全体の構図として面白いのです。この映画を観たのは2回目ですが僕は我妻の登場シーンから心を掴まれて最後までそれが持続しました。改めて北野武は観ないといけないです。1つ引っ掛かったのは最後の終わり方がよく分からない秘書の女性で終わるというのがちょっと嫌でした。それから偶然かもしれませんが松本人志の「大日本人」(2007)は実はこの「その男、凶暴につき」と同じく初監督で主演で尚且つ年齢も北野武は42歳で松本人志が43歳の時の作品です。二人の人間性をどちらもよく表した映画になっていて興味深いです。

今日の出来事

こんにちは。今日は久しぶりに充実した休日を過ごしました。別に何ということがあった訳ではありません。いつも通りと言えばいつも通りなのですが何でしょうか心に余裕があったからでしょうか。僕は大体休日には予定を何となく立てます。それが今日は滞りなく進行したこともあります。先週はそれが出来なくてかなりダラダラしていました。別に隠してもしょうがないのであれですが先週は図書館に行きたかったのですがそこが閉まっていたのです。そして今日その図書館に行きました。そしたらその図書館がもう我が家の如き居心地の良さだったのです。まずWi-Fiがあります。そして温かいコーヒーが無料で飲めます。そして利用者が少なくほとんど一人きりで作業出来ます。完璧です。コーヒーが飲める図書館って珍しい気がするのですが素晴らしいです。4時間くらい集中して作業しつつ時々別のことをしながら時々外見たりトイレ行ったりして凄く快適でした。というか家です。図書館って本当に良い場所ですね。3月も半ばを過ぎました。今はとても世の中を肯定的に見れています。3月の頭くらいには遁世したくてたまらなかったのですがやはり僕は気分屋なのですっかり気が変わりました。まあこの振り幅の中でずっと生きていくのだと思います。

最近考えていること

こんにちは。三隅研次の「斬る」(1962)を観ました。市川雷蔵の演技を初めて観ました。付けまつげなのか分かりませんがまつげが長かったです。この映画は71分と短くまた始まりから終わりまで格好良い映画でした。今観ると変な感じなのですが1962年とは思えないようなモダンな時代劇でちょっとヌーヴェル・ヴァーグに似ているなと思いました。曇天の切合や武家屋敷を天井から俯瞰で捉えたショットなどは普通の時代劇では見れないもので面白かったです。切合で血が出ないのに倒れた人間からは血が出ているのは映倫の関係で直接人間から血が出るのが駄目だったのでしょうか。ただ初めの方に出て来た市川雷蔵の妹役の人があまり演技が上手くありませんでした。最近油絵を描いています。結構楽しいです。油絵は一度描くと2〜3日待たないといけないのですがそれもまた絶妙な時間です。今フェデリコ・フェリーニの「カサノバ」(1978)を観て途中で止めています。僕がフェリーニに感じていたイメージはもっと夢と現実が混じって長回しを使うイメージだったのですがそれは恐らく僕が勝手に作った幻想でした。流石にフェリーニの映画は簡単に理解させてくれないようです。何というか前衛的と言えばそうなのですが所謂芸術という格調高さが無くかといって通俗的かと言えば全くそうではない映画です。1つあるのは演劇です。演劇を映画にしたらこうなりましたみたいな映画です。海のシーンで明らかにあれは素材は何か不明ですが海に見立てたビニールみたいなシーンがあってやっぱりこれは演劇なのかなと思いました。セックスのシーンの表現で主人公が画面を上下に運動するのが何度も使われています。これは多分意味があると思います。そういえば以前「サテリコン」(1969)を観たときもこんな気持になっていました。でも「サテリコン」では終始画面の中の意味が渋滞しているイメージでしたが「カサノバ」は最初の祭りのシーン以降は話は案外分かりやすい感じでいや意味不明なところは沢山ありますがやっぱり観ている間これを撮っているフェリーニの頭の中を想像してしまう映画です。

吾妻ひでお 夜の魚について

こんにちは。メルカリで頼んで読みました。表題作の「夜の魚」が一番面白かったです。最近漫画の中で登場人物がセックスすることはその世界に登場人物を繋ぎ止めるためのアイテムだと感じます。何というか漫画ってそもそも虚構の世界なので例えば人間が死ぬにしても全部嘘な訳です。実写映画ならば出てくる人間は本当の人間ですから嘘にしても死ぬという現象にリアリティがあります。だから漫画では登場人物が死ぬことやセックスすることによってその世界に厚みを持たせることが出来ます。しかし吾妻ひでおはそのリアリティを持たせる筈の行為を儀式的に描くことでそれすらも裏切っています。個人的な話ですが僕も漫画を描いています。年齢と共に部屋の中で恋人同士が話している場面とかを描いているとその先にセックスを描かないと嘘のような気がしてきました。これは明らかに以前は無かったことで自分でも驚いています。「夜の魚」に載っている話も大体最後はそれで終わります。それは非常によく分かります。別にエロいものを無理矢理入れようとか思う訳でなく自然にそうなるだろうというかそうしないと話が終われないだろうという思考に変わりつつあります。それと絵は上手いです。

好きな音楽について

こんにちは。最近よく聴いている音楽を列挙します。

舩木真弓「四方八方肘鉄砲」(1993)

https://youtu.be/x52S37taawA?si=CwL9m7OxsBZ-GjZu

皆口裕子「MUGO・ん・・・色っぽい」(2011)

https://youtu.be/9HBqheobfFs?si=SoYOtlhIylS58naH

Team.ねこかん【猫】「エアーマンが倒せない」(2008)

https://youtu.be/KLbFctG3tw0?si=1FYquHC2oKmyMOVA

coba「過ぎ去りし永遠の日々」(1992)

https://youtu.be/NPIfZ9kC9hE?si=XlAbM9m9S0LU38AN

Nastia「Ja i Ty」(2023)

https://youtu.be/R1nxy64KBpo?si=eSMAlCgBTPOXs_m4

キリンジ「あたらしい友だち」(2013)

https://youtu.be/_tKd1wbP2hM?si=Cwkea7xZsv5nA2Qo

井上陽水「クレイジーラブ」(1980)

https://youtu.be/B1QsKafCkuQ?si=taLQklc18f1USUUA

奥田民生「イナビカリ」(2008)

https://youtu.be/Mr8i7pIMAw0?si=rtY3saQjDqIPjqdU

ゆらゆら帝国「つぎの夜へ」(2006)

https://youtu.be/Zru7TpIp3bE?si=NmSzncnUmQ13E60u

最近舩木真弓を知りました。YouTubeにアルバムはなく本人のチャンネルに単発で幾つか曲があります。凄く綺麗な歌声で良いのですが失礼ですがこんな人でも売れなかったのだなと思います。

最近考えていること

こんにちは。今日は長くなります。昨日は健康診断と先月ハクビシンに噛まれて破傷風のワクチンを打ったのでその2回目のワクチンのために病院に行きました。どうでも良いことですが健康診断のために看護師が10人くらい居たのですが多分8人くらいが眼鏡をかけていました。余りにも待ち時間が長いので楳図かずおの「おろち」(1969)の3巻を読破しました。「おろち」の構成って良く出来ているなと思います。主人公のおろちがある1人の人間を見守るという話なのですが短編を作る時にぶつかる物語の急な展開の不自然さをおろちの超能力で打ち消しています。健康診断で僕は血圧が160ありました。看護師さんが少し驚いていて測り直しても変わりませんでした。緊張して上がるという話を聞いたことがありますが残念ながら全く平常心でした。血圧が高いことは何かショックでした。何というか見た目では全然分からないので余計に自分の身体が心配になりました。思い当たる節はやはり塩分の過剰摂取つまりラーメンの食べ過ぎでしょう。それと最近少しだけお酒を始めたことも原因としてあるかもしれません。昨日は火曜日だったので午前中に病院が終わり午後は図書館に行こうと決めていたのですが僕が行きたかった図書館は蔵書点検で閉まっていてテンションが下がりました。仕方なくローソンのイートインスペースで作業しました。作業とは漫画なのですがそのローソンで漫画を描いている時に何故かふと前々から考えていたことが結実しました。それは漫画を何の為に描いているのかということです。これは非常にややこしい問題です。結論から言えば自分の為に描いているのですが何と言えば良いのか例えば少し前なら隣に綺麗な女の子が居たらその女の子に褒められたいもしくは認められたいから漫画を頑張れるという思いがありました。でも今はそう思えなくなっている自分に気付いたということです。もっと広く言えば世の中全てが今は嫌いになっています。僕は周期的にこういう心理状態になります。吾妻ひでおの「夜の魚」(1993)をメルカリで頼んだのですがそれは「失踪日記」(2005)を読み返したからです。今凄く遁世したいのです。社会の中の小さな矛盾が許せない気持になってくるのです。だから多分周期的になるというのは社会生活の中で積もり積もった矛盾とか疑問とかが自分の中で一気に噴出するタイミングなのだと思います。それと自分が余りにもメジャーなものを遠ざけ過ぎていることもあります。最近同年代の人の会話を聞く機会が多かったのですが全く違う生き物のようでした。観ている映画も聴いている音楽も多分僕とは全然違うのだと思います。このジレンマは死ぬまであるのでしょう。あと今描いているものが夢と現実が入り交じる話を描いていることも不安定な気持に拍車をかけています。全然気が狂うとかそんなところまで追い詰められてはいませんがその整合性の無い話がどうしてこんなもの描いているのだってなります。漫画を何の為に描くかというのはそれを誰に見せたいのかという問題にも繋がります。それは漫画編集者なのか隣の女の子なのか僕の場合は見せたいのは自分でしかないと思ったのです。編集者のアドバイスも女の子の褒め言葉も要らないと思ってしまったのです。宮崎駿のある講演の文章を読みました。宮崎駿は「パンダコパンダ」(1973)を作ってそれを映画館で子どもが集中して観ているのを見た時にこれからは子どものために映画を作ろうと思ったそうです。宮崎駿の「君たちはどう生きるか」(2023)って改めて宮崎駿の自叙伝でもあるなと思ったのはその講演の中で実家に居た女中さんが私はおひつでご飯を食べたことがないという話を聞いて子ども心に強烈な不公平を感じたというエピソードがあって「君たちはどう生きるか」でも記憶が朧げですがおひつに集るおばあちゃんのシーンがありました。フェデリコ・フェリーニの「女の都」(1980)「カサノバ」(1976)のDVDボックスをメルカリで頼みました。フェリーニには何かありそうです。今日は少し世の中を肯定的に見れています。何故かというと今日は仕事があって人と会話したからです。最近思うのは山の上で1人で生活すると多分昨日のような状態がずっと続くのだろうということです。老人の心境はそれに増して老化が追い打ちをかけてきます。前にも書いた気がしますが老人ドライバーの交通事故はそういった原因もあると思います。気が狂わない方がおかしいのです。