最近考えていること 

こんにちは。3月になりました。高畑勲の「映画を作りながら考えたことⅡ」(1999)のⅣ章「自然・里山・まち・都市」で「都市の発展と景観」という隈研吾とのディスカッションを記録したものがあります。非常に興味深い対談なのですが、高畑勲が日本における電線と電柱問題について指摘していて、というか実は今丁度その電柱問題について調べていて逆説的にこの対談を思い出したのです。日本において電柱、電線の問題は戦後の復興から立ち直るため一時的に電力供給を賄う名目で建てられたものがなし崩し的に今もなも残っているところにあります。よく言われていることですが、日本は自国の文化の保存に対する意識が諸外国よりも低いです。色々理由はあると思いますが、海に囲まれていて元寇や露冦など敵国に一時的に攻め込まれた経験はあっても永続的に占領された経験が無い(GHQは除く)ことや、場当たり的な国民性も影響していると思います。欧米諸国が電線の地中化を積極的に取り入れた背景には、大陸で繋がった敵国という強い意識が自国の文化の歴史を保全する民族性に繋がっているからだと思われます。またこれは僕にも当てはまることなのですが、最早日本人は電柱のある風景に慣れてしまって、あろうことかそれに美しさを見出してしまっています。例えば庵野秀明とかは作品内で電柱を装飾的に使っています。電柱、電線の問題は災害時に二次災害を引き起こしたりして早急に対応すべきだと思いますが、実は地震大国である日本にとっては電線が架空線であったほうが復旧が早く、また地中化すると断線したときにそれを見つけるのが難しいなど、双方にメリット・デメリットがあって一概には判断出来ないようです。先の対談でも触れられていましたが、もう我々一人一人がどうにか出来る範疇の問題ではなく、国レベルで動かなければどうにもならない問題らしいです。環境保全ならば一人一人がゴミを拾ったり、無駄遣いをしない、車に乗らないなどして対応出来ますが、そういうレベルの話ではないのです。リドリー・スコットの「ハンニバル」(2001)を観ました。ジョナサン・デミの「羊たちの沈黙」(1991)の続編です。所々入る今調べてみてもよく解らないのですが、ハイスピードカメラのようなコマが細かい映像や、スローモーションなどの演出以外は良かったです。それが少し安っぽい感じがしたからです。中盤とか終盤の展開は凄い面白いのですが、序盤のアクションはあまり良くなかったです。それからジョディ・フォスターは同じ役は出来ないという謎の理由でキャスティングを断ったらしいのですが、ハンニバル・レクターの役を同じアンソニー・ホプキンスが演じている以上、ジョディ・フォスターが演じないと成立していない箇所がありました。それは電話を通してレクターとクラリスジュリアン・ムーア)が会話するシーンや、囚われているレクターの元にクラリスが行くシーンなどは前作の展開を踏襲していて、そこはジョディ・フォスターでなければ演出として効果が無いのではないかと思います。