水到りて渠成る

こんにちは。6月になりました。先週の記事で日記を書くのを止めると書きましたが気が変わりました。実は半年程前からずっとこのブログを書くという行為について思うことがあり先週は悩んだ末そういう結論になったのですが今週心の靄が晴れる出来事があり継続するに至りました。ズバリそれはタモリです。何故タモリにハマったのかというと「てれびのスキマ」というブログの記事を読んだことがきっかけでした。同著者の戸田辺誠「タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?」(2014)を勢いでKindleで買って読みました。正直言うと少しタモリを神格化し過ぎている感は否めないのですがタモリの謎の魅力に対する回答は得ることが出来ました。簡単に言うと今のそのままで良いということなのですがそれを大きな存在が肯定することその肯定することの重要さを再認識しました。また意味を破壊することの愉しさも忘れていました。僕はその流れを井上陽水の歌詞とかフェリーニの映像とかから確かに受けていたのですが最近小説を書くようになって特に日本語の意味にこだわるようになっていた時にタモリという存在がスルッと心に入ってきて再びフラットな地平で物事を考えられるようになりました。タモリの印象としては赤塚不二夫へ向けた弔辞の言葉が最も強くあります。あの言葉はつまりタモリ自身のことを言っているのだと理解しました。男はある年齢になるとタモリを一度通過するのかもしれません。飄々と悠々とあんな感じに憧れています。アリ・フォルマンの「戦場でワルツを」(2008)を観ました。本当はamazonでDVDを買って観たかったのですが在庫が無くYouTubeで観ました。自動翻訳のため訳が無茶苦茶で話は3/1も理解してないのですがアニメーションの映像が素晴らしく高畑勲の言うアニメーションで人間が一度紙に描き起こすことで浮き彫りになるリアリティを感じました。今週携帯が壊れて修理に出すためにdocomoショップに行くと「真・侍伝 YAIBA」(2025)がモニターで放送されていました。何気無くすることもないので観ていましたが20年前からちっとも変わってないなと思いました。だから日本のアニメーションは駄目なんだと言いたい訳では無いですがいややっぱりそう言いたいのです。もっと観てハッとするような驚きを感じたいのです。ポン・ジュノの「母なる証明」(2009)を観ました。冒頭のヘンリー塚本のような謎のダンスシーンからこれは凄いと思いましたがポン・ジュノはキャスティングがいつも素晴らしいです。美男美女ばかり出てくる韓流ドラマに対するアンチテーゼなのか出てくる俳優は皆癖の強い変な顔の人ばかりでそれが好感が持てます。またポン・ジュノは街というものを効果的に使っています。「殺人の追憶」(2003)でもそうでしたが映画に出てくる街の描写が優れています。YouTubeで「タモリ倶楽部」を観て何と面白い番組を長年やってきたのだろうと思いました。世界を肯定するためには例えばそれは僕の場合タモリだった訳ですが誰か1人でも良いのでその1人を媒介にして世界を見るとそこから新しい何かが必ず発見出来ます。しかしこれは中々偶然では気付けないもので僕が毎日何かを探すためのアンテナを張っていたから発見出来たのでそこは自分を褒めてあげたいと思います。