ルーシー・モード・モンゴメリ原作 髙畑勲監督作品 赤毛のアンについて

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こんにちは。最近一度観たものを見返してばかりいます。今作っている作品が過去を思い出して作るものなのでそれも関係しています。一度観たものを見返すと、懐かしさと発見があって楽しいです。しかしそればかりではいけないので、そろそろ気持ちを切り替えてまた新しいものを観たいと思います。「赤毛のアン」はまだDVDの一巻しか観ていませんが感想を書きます。髙畑勲著「映画を作りながら考えたこと」で「赤毛のアン」はユーモア小説と捉えたことで仕事ができた、と髙畑勲はいっています。この「赤毛のアン」についてのインタビューは髙畑勲の演出論を理解する上でいい教材です。余談ですが、このインタビューの項で髙畑勲が英雄論を語っているのですが、それもとても面白かったです。アンの生い立ちを考えればアンが空想をしないと生きていけなかったことが解るのですが、僕も髙畑勲と同じでアンよりもマリラの方に感情移入してしまいます。僕は一度全話通して観ているので分かるのですが、「赤毛のアン」の良くできているところは、アンの成長をテレビシリーズの長いスパンでじっくり丁寧に描いたことだと思います。これも「映画を作りながら考えたこと」に書かれていますが、「アルプスの少女ハイジ」でハイジは大人から見て良い子ども、を目指して作りすぎたので、アンは大人から見れば、決して良い子どもではないように作ったらしいです。確かに観ていて笑ってしまう箇所が幾つもあります。しかしもし小さい女の子が観ればきっとアンに感情移入するのだろうなとも思います。ロケーションも実際にプリンスエドワード島にロケーションハンティングに行って作られています。髙畑勲のリアリズムな演出は今作でも発揮されていて、台詞の後の間やアンの微妙な心の動きを細やかな表情の変化で表現していたりします。アンがマリラのいいつけを忘れてつい喋り過ぎてしまう場面は、思わずおいおい、と観ながら言ってしまいます。

2021 0821
今はDVDの二巻を見終わりました。前観たときも思ったのですが、僕はこの二巻の10話「アン、心の友と遊ぶ」を観て、この作品に心を掴まれました。前半はアンの良い所もみせつつしかし、癇癪をおこしたり、空想しすぎて喋りすぎたりするなどネガティブな部分を中心に話が進んでいましたが、このダイアナの登場でアンはずっと空想でしか居なかった友人を得ます。今までのネガティブな部分は全てこの話で昇華されて、アンの人を気遣える優しい一面が見えます。この構造がやっぱり凄いです。アンとダイアナのままごと遊び、気絶ごっこ、本の下りを二人で言い合うことなど、男の僕には無かった女の子の世界を垣間見ることができます。アニメーションもこの辺からぐっとアニメーターの熱が入って作画が綺麗になります。本当にこのダイアナの登場から一気に「赤毛のアン」は面白くなります。

2021 0824
今三巻を見始めました。マリラのブローチの話ですが、11、12話に跨がって話が進みます。12話の「アン、告白する」というタイトルからアンは本当にブローチを取ってしまったのか、という心理的サスペンスを視聴者は感じます。結果としてマリラの勘違いだったのですが、良くできているのは、アンの告白にきちんと映像がついていてあたかも本当のことのように騙しているところです。アンのもし自分だったらと想像してみて、という台詞は大人が社会にでて忘れてしまった他人の立場に立つ、ということです。児童文学の優れているところは子どもに物事の本質を言わせることで、大人が感銘を受けるということにあります。それにしてもアンの長台詞は最早コントのようです。しかもずっとボケっぱなしでツッコミがいないので面白いです。マリラは一応ツッコミのポジションですが、全然ツッコミません。僕はひとりでげらげら笑っています。前にも書きましたが、この作品は髙畑勲が原作をユーモア小説と捉えたために作った作品なので、そういう意図もあるのでしょうね。

2021 0827
今日四巻を見終わりました。ダイアナに対する演出が非常に冷たく、気になって前調べた記事を調べ直すと、「赤毛のアン」についてツイートで感想を書いているサイトを見つけて、そこに興味深いことが書いていました。髙畑勲はダイアナを意識的に頭が悪く、自分で自分を抑えられない女の子としてはっきり描いています。それは、葡萄酒を間違えて飲んだ時の反応や、ミニーメイが喉頭炎に罹ったときの反応で分かります。特に喉頭炎の話ではアンとダイアナが対照的に描かれていて、残酷にすら感じました。このサイトには他にも面白いことが書いていて、アンの妄想癖や、癇癪、イマジナリーフレンドは、児童虐待の子供の特徴に見事に当てはまっているようです。僕も観ていてなんとなく、分かってはいましたが。確かにアンの異常で過剰なお喋りや、時折見せる鏡に向かって本気で話していたり、木や川に名前をつけたりすることは小さい女の子だから、という理由だけでなく、現実から逃避するために彼女が産み出した処世術だったということが分かりました。しかも、それを気付かせない様に物語が作られていることも重要です。こんなことは台詞でぺぺっと書いて、リンドのおばさんあたりにでも言わせることはできるはずですから。髙畑勲恐るべし。

2021 0912
今日8巻まで見終わりました。アンの成長と共に話も暗く、現実的な話が多くなってきます。子どもが知らぬ間に大きくなっていく表現、これはマリラもそうですが、観ている我々にも同じことがいえます。ずっと観ていると小さな変化に気付かないもので、アンの等身が少しずつ大きくなっていることに過去のシーンを観て気付きました。ダイアナのキャラクターが僕は好きで、クイーン組に入らないことを決めた話や、物語クラブの存続の話などダイアナはとても不憫です。前にも書きましたが、髙畑勲はダイアナに対して厳しい演出をしていて、アンが舟でギルバートブライスに助けられた話でも、ダイアナは沈んでいく舟に呼び掛ける、という非常に理屈に合わない行動をします。しかしそれが可愛いというか、まあ可愛いです。アンとダイアナがちょっとしたことからお互いの悪口を言ってしまう話があって、本当にこんなことがきっかけで言い争いになるよな、と感心しながら観ました。こういう細かい演出って本当に大事ですね。

2021 0925
最終話まで観ました。観ていて気づいたのですが、普通のTVアニメーションならアンのエイヴリー奨学金に合格した話を最終話に持ってくると思うのですが、(色々あってハッピーエンドになりますし、マリラの失明の話もあとでどうとでもなります。)先にエイヴリー奨学金の話があって、最終話に向けてマシュウが死んで、アベイ銀行が破産し、マリラの目が失明するかもしれないようになります。クイーン学院の頃の話から本当に最終話に向けてどんどん話が暗くなっていくのは、アンが子供から大人になって現実を見れるようになったからだと思いました。マシュウが死ぬのは物語の必然、というかマシュウが居るとアンに恋愛をさせにくい、というのがあると思います。実際このあとでアンはギルバート・ブライスと仲直りします。マシュウが死んでマリラとアンが二人で窓辺で話すシーンが感動的でした。マリラの台詞が特に良くて是非字幕で観てほしいです。最終話もそうですが、「曲がり角」とかタイトルのセンスが良いです。というかこの「赤毛のアン」は相当暗い結末です。アンは父親のような存在を亡くし、お金も失い、大学にも行かず、しかもマリラは以前のような活気を失って、マリラに本を読み聞かせる姿は介護に近いです。そして何故こんな結末なのにアンの最後の顔が晴れがましいのか。それはアン自身が台詞で言っています。他にも大学に行くのをやめて、それを知らない友達から手紙が来る下り、僕にも経験がありますが、楽しみにしてくれている人をがっかりさせてしまう申し訳無さがよく表現できています。