ロマン・ポランスキー監督作品 告白小説、その結末について

f:id:okabayashisoma:20210711195137j:plain
こんにちは。とんでもない映画を観ました。とりあえず滅茶苦茶面白かったです。観ていて色々考えることがありました。なんでこういう映画が作れるのか分かりません。ポランスキー凄いですね。2017年の映画なので当時で84歳くらいです。こういう映画を観ると映画を作る感性に年齢は関係ないのだと改めて思います。主演のエマニュエル セニエは「ナインスゲート」では謎の女を演じていました。セルフパロディもたくさんありましたね。まあ初めから順番に書きます。冒頭、コミックマーケットでファンにサインする場面から物語は始まります。関係ないのですが最近観た「ヒアアフター」のラストがコミックマーケットでしかも舞台がパリだったのでなにかの関連性を考えてしまいました。そしてエルが登場します。登場したとき音楽が消えて、まるで二人だけの世界のような演出がされます。ここから明らかに、後に台詞でも出てきますがこのエルが主人公のイマジナリーフレンドであることが示されます。その証拠は沢山あります。列挙すれば、エルが主人公意外の人と会話しない、エルの服装がいつも綺麗で全く生活感がない、エルが画面から消えて人が入ってくる、という演出、主人公と背丈や服装が似たものが多いことなどです。ラストのシーンでやっとカットが跨がって消える、という演出が入りますが、それまでは徹底して実在する人物として描かれています。「ローズマリーの赤ちゃん」でもそうでしたが、一応結末の映像はあるのですが、その前辺り、映画の後半位から夢と現実の映像が入り交じり結末の映像が主人公の夢なのか現実なのか意図的に解らなくしています。いやこの演出は凄いです。話の進み方も異常、といっていいと思うのですが、とんとん進んでいきます。普通ならもう少し躊躇するだろう、という所でも主人公は何故か受け入れていきます。パソコンのパスワードの下りなどがそうです。前に何処かのブログで読んだのですが、ポランスキーの作品の登場人物はまるで自らの運命を理解しているようで、カットが変わればけろっとしていたりします。確かに日常生活においてなにか劇的なことが起きても意外とこんなもんだよな、とも思いましたが。差出人不明の手紙という最初の謎もエルの家に行く所で消えます。これもあったのか、本当は無かったのか、はたまたエルが送っていたのか謎です。しかしそういう可能性をきちんと作り上げた上で、そのどれにも答えを出さないというのが良いのです。この映画の特徴として物語で起きていることを台詞できちんと登場人物が発言する、ということがあります。黒沢清が「ぴあ」のインタビューでポランスキーについて語っていたのですが、ポランスキーの凄さはストーリーテリングにある、といっていました。例えばエルが主人公の代わりに学校に講演にいった帰り、エルはこれで一心同体ね、といいます。まずこの主人公の代わりになる、という展開自体主人公のもうひとつの人格、またはイマジナリーフレンドであることを暗示しているのですが、ダメ押しのように台詞でも一心同体、という言葉をわざわざ使っています。僕はあからさますぎてミスリードしているのかと思ってしまいました。映画の後半足を骨折して、ここから「ミザリー」っぽいですが、エルの家の行きます。そしてガソリンスタンドでエルが給油している場面から急に主人公はエルを題材に小説を書くことを電話で伝えます。少し不自然です。ここからエルと主人公の立ち位置が入れ替わるような話になります。どういうことかというと、今まではエルという主人公のファンの怪しい女が主人公に近づき、主人公の日記を見ようとしていたのが、エルの家に行く所から主人公がエルの過去を小説にしようとする、という担っていた役目が入れ替わることになります。スープを捨てるところ、薬を飲まされるところ、「ローズマリーの赤ちゃん」ですよね。ラストは冒頭とリンクしていて主人公と同じ名前の人物が出てくることからまた物語は繰り返されるのでしょう。映画を観ていていくつか気になった所がありました。まず主人公の子供。近所の公園のような所で主人公が電話しています。息子の方は留守電で娘の方は電話で話しているのですが、この娘の話が嘘っぽいのが気になりました。そしてエルの過去の話です。主人公=エルだとするなら主人公の過去ということになります。エルの突発的な暴力はなにか原因があるのでしょうか。この映画編集上手いですよね。ポランスキーって万能な監督だと思います。色んなものが撮れますよね。大好きです。