黒沢清監督作品 アカルイミライについて

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こんにちは。7月に入りました。まだ月の目標を決めていないのですが、現状維持で行きたいと思っています。ルーティンワークはまだ続いていますが、やはりもう少し飽きはじめています。僕はダメです。同じことをずっと続けられる人を尊敬します。黒沢清はほぼ全てのタイトルを観ているほどのファンです。今日の邦画界の中でずっと変化しながら、面白い映画を作り続けている、本人もいっていますが職人のような監督です。「アカルイミライ」は前から観たかった映画のひとつで何処のTSUTAYAを探しても無かったのでYOUTUBEでレンタルして観ました。感想も「映画を書くと頭が疲れる」の素晴らしい感想を読みました。映画を観て、感想を読むのは楽しいですね。僕は観ていていくつか気になったことがありました。まず拡大した映像が使用されているシーンがいくつかあること。しかも規則性がなく無作為に映像を使用している印象を受けました。あとは構図がそれまでの黒沢清の映画のような映画的な構図ではなくカメラが登場人物に近い位置に配されていて、映像の質感、都会の風景がまるでミニチュアの様に見えることから「リアル~完全なる首長竜の日~」に似ているということを感じました。なのでやはりこの映画は繰り返し出てくるテーマである夢の世界なのだと思います。それと主人公のオダギリジョーの服が映画の後半くらいから何故かぼろぼろになっていること。詳しく観ると、それは浅野忠信が自殺する場面から服がぼろぼろになります。それからラストの撮影クルーの写り込みです。これは異化効果というもので、観賞者に今映画を観ていることを分からせることが目的にあると思います。黒沢清の発言を読むと、この映画は渋谷系若者映画を撮ろうとして出来たそうです。僕の率直な感想はこんなこともするのか、というものです。この映画は2003年のもので、それまでの「CURE」「カリスマ」「回路」などの映画を撮っていた監督とは思えない演出や構図に正直戸惑いました。しかしこれを経たからこそ後の「叫」トウキョウソナタ」などに繋がるのだと考えると感慨深いものがあります。思えば、この映画の加瀬亮の演じた役は「叫」の医者の息子に繋がります。同じモチーフを何度も使うことに昔は抵抗、というか単に思い付かないだけかと考えていましたが、今はそれこそが作家性であり、それを見つけることが大切だと考えるようになりました。「映画を書くと頭が疲れる」の感想でも触れられていましたが、宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」との類似点はいわれて初めて気付きました。確かにこの映画のストーリーは、「銀河鉄道の夜」に似ています。劇中に藤竜也が口ずさむ歌は「星めぐりのうた」という宮澤賢治が作ったうたですし、また黒沢清は2003年に「風の又三郎」の朗読の監督をしています。宮澤賢治はまた調べないといけない気がします。