最近考えていること

こんにちは。このブログをはじめた理由はもちろんインターネットで公にしているので、皆さんに読んでもらい何かのきっかけになれば良いなというのもあるのですが、それよりも僕の日々の考えていることの日記のようにしたいと思ったからなんです。ブログを書くようになり、映像や音楽を鑑賞するときの心持ちが変わってきました。いい感じです。新しいことをはじめて一番楽しいのはこういうことです。今まではインプットしてそのままで満足していたのですが、僕も大人になってアウトプットすることが大事だと考えるようになりました。最近考えていることは殺人事件のことについてです。いきなり物騒ですいません。昔から興味があったことで、自分の身の回りでは全く現実味がない絵空事なのですが、毎日、どこかで起こっていることです。殺人事件と括らずとも、交通事故や病気、大きくいえば戦争などの人が死ぬ現象のことに興味があるんです。あくまで学術的な興味ですが。殺人事件が起これば当然、被害者、加害者、その両方の家族などが出てきます。事件がセンセーショナルな場合はニュースは加害者の異常性や家庭環境についての話を報道します。これは加害者を我々とは違う人間だとカテゴライズすることで安心を得るためです。しかし人が人を殺すことは簡単ではありません。衝動的ならまだしも計画的な犯行の場合はもっと難しいと思います。だからこそセンセーショナルな事件は人の興味を誘います。犯人の人間像、近所の評判なども報道されます。日本にもたくさん猟奇的な事件はあります。犯人は一線を越えてしまった人ですが、その境界は実はどこにでも存在していると思います。だから安易に異常者とカテゴライズすることは危険だということです。今は平和なので殺人と聞くと、とんでもないことですが、戦争中になると、その感覚も失われるかもしれません。だって、自分より一回りも年上の大人が真剣に敵国を倒す作戦を話したり、刀を振り回している中で育てば、それが正しいと思うのでしょう。何故こんなことを考えているかというと、ロマンポランスキーの「戦場のピアニスト」を観たからです。観ている途中から似ているなあ、と思い調べてみて驚きましたがスティーブンスピルバーグの「シンドラーのリスト」も、同じポーランドナチスユダヤ人の虐殺、いわゆるホロコーストを取り扱っていました。「戦場のピアニスト」はポランスキーの特徴である整った構図と、フィルムのような映像の質感で淡々と主人公であるシュピルマンナチスの迫害から耐え抜き生きていく話です。興味深いのは「シンドラーのリスト」ではナチス側であるシンドラーから見た第二次世界大戦を「戦場のピアニスト」ではユダヤ人であるシュピルマン側からみた第二次世界大戦を描いていることです。調べてみると「シンドラーのリスト」が1993年、「戦場のピアニスト」が2002年に公開されています。二つの作品にはまだ共通点があります。それは人が人を殺すことの異常性が麻痺していく点です。どちらの作品にも人を物のように殺していくシークエンスがあります。「戦場のピアニスト」で僕が一番心に残ったのは、ユダヤ人が暮らしているゲットーという居住区にドイツ兵が乗り込んできて、通りに集められます。無差別に人間が列から選ばれ、地面に伏せさせられます。主人公は運良く選ばれませんでしたが、さっきまで話していた男は選ばれました。一人ずつ、頭を撃たれ殺されていきます。主人公は無表情です。撃たれるものもなにもいわずただ死んでいきます。まるで儀式のようです。主人公の知り合いの男の番になりました。撃とうとしますが弾切れです。ドイツ兵はゆっくりと銃弾を装填します。この間にその知り合いの男の顔が映されます。普通だと助かったと思い、安堵する表情や、まだ恐怖にふるえる表情を映すと思いきや、男は無表情です。そして頭を撃ち抜かれ死にます。このシークエンスに戦争における感覚の麻痺がよく表されていると思います。殺す人間も殺される人間も見ている人間も皆無表情、なにも感じていないかのようです。床に伏せさせられ一人ずつ隣で殺されり音が自分に迫ってきたら、恐怖を感じるはずなのですが、男は無表情というか空っぽのような表情で殺されるのを待っています。長くなってきました。最後のピアノ演奏のエンディングといい、黒沢清の「トウキョウソナタ」はこれに影響されたんじゃないかとも思いました。映画と音楽については書いたので今度は漫画について書きたいと思います。f:id:okabayashisoma:20210528195008j:plain
バガボンドについて書こうかなと思います。